google.com, pub-5466711727949766, DIRECT, f08c47fec0942fa0 ソ連とロシアの話 その1-旅するように暮らしたい

ソ連とロシアの話 その1

2021/01/15

シニア ヨーロッパ 建築 飛行機

t f B! P L

1991年のことです。

撮影のためにソビエト連邦に行きました。


今から30年前で私は34歳でした。











1991年8月14日ソビエト連邦モスクワ
シェレメーチエヴォ国際空港に到着しました。
日本人スタッフは7名でした。

ソ連のモスクワクーデターは8月19日でした。
その少し前に私達はいたことになります。空港前には戦車がいました。
物々しい雰囲気で「これはヤバイんじゃない?」と思いました。




迎えにきたガイドの車で向かったのは「赤の広場とクレムリン」異常な緊張下でソ連の崩壊直前、クレムリンから走り出た5台の高級車が猛スピードで走り抜けて行きました。車窓にはゴルバチョフらしき人影が見えましたが、確認も出来ませんでした。 





次に向かったのは市内のホテルです。立派な建物ですが古いです。モスクワ市内のホテルは全て国営(当時) でした。私達外国人は自由に外出できましたが何故か見張られているような気になりました。ホテル入口の警官の眼が鋭く不気味でした。







1階に日本食レストラン「SAKURA」があり全員で行きました。メニューを見たらまともな料理はすべて日本円で2万円以上でした。予算の都合で仕方無く揚出し豆腐を2つ頼みました。それでも1個3000円位したと思います。







ロシア人コーディネーターのザックリした説明によると経済が崩壊しており通貨のルーブルは紙くず同然らしい。一方ドルは人気で狙われるので注意した方が良いそうです。

ホテル内はロシア人は入れないから安心して眠れるそうです。
各階に番人のおばさんが居て「まあ安心かな?」な感じでした。
ところが夜中になると、金髪の娼婦が次々と部屋をノックします。








なんと番人のおばさんは安いお金で娼婦に買収されていました。役に立たない番人です。こんな危険な娼婦はすべてお断りしましたが大変しつこかったです。そのお陰で完全に睡眠不足でした。(笑)

その翌日、撮影場所の確認で市内をあちこち廻りました。道端に屋台のような露店があり、お肉の串焼きみたいな物が売られていました。タレが焼ける香ばしいにおいがして旨そうでした。

興味をそそられた私が近づいていくと「その肉はクオリティーが低いので食べるな!」とロシア人ガイドが袖を引きました。日本人が食べると確実に腹を壊すそうです。ヤミ商売が出て急に街中が物騒になったそうです。

それ程迄にモスクワ市内は混乱を極めていたんですね。






国が崩壊する。そんなモスクワ市民の気持ちは日本人には理解できないだろうな〜。

そんなことを考えながら私はモスクワの町並を車から見ていました。



1991年のことです。
撮影のためにソビエト連邦に行きました。



国が崩壊するかも知れない状況から一転

モスクワから鉄道で東へ向けて出発しました。











この撮影の目的はシベリア鉄道でした。モスクワからウラジオストクまで全長9289Kmです。世界一長い鉄道と言われています。スタートから約7日間かけて海岸沿いのウラジオストクまで走っています。







そのまま乗っていれば7日間の行程ですが、私達は外観の撮影をしながら移動しますので何回も降りて撮影しなければなりません。列車は1日に1便だけですので降りている間の滞在は最低2泊以上になります。


軍施設の多いウラジオストクの撮影許可は出ませんでしたので、目的地はハバロフスクまででした。モスクワからハバロフスクまで降りたり乗ったりしながら21日間の長旅となりました。








「シベリア鉄道の旅」ですから冬景色の撮影も必要なので冬の撮影も予定されています。なので冬撮影の調査も同時進行という恐ろしいスケジュールでした。さらにヘリコプター空撮が3回予定されていました。







ロシア人コーディネーター(兼通訳)は私達と一緒でしたが、ロシア人の助手が先に出発して先行して撮影許可や宿泊手配、必要機材の入手や準備を行う手筈になっていました。なかなか複雑な手配が必要ですので心配してましたが彼を見送りました。


何回かの打合せの後、モスクワ出発の朝となりました。私達の荷物は撮影機材や私物含めて小さなタンスほどのアルミケースが4つになりました。また日本人用に1等寝台に2人用個室が4部屋割当てられ2名ずつ部屋に入りました。












また少し驚いたのが、我々スタッフ専用の食堂車が一般の食堂車とは別に連結されていました。無駄に広い食堂車に日本人が7人で地味に食事していました。食事は大変豪華で大きな缶にキャビアが山盛りで食べ放題でしたね。









一つ困ったのがビールが冷えてないんです。冷やす習慣がないらしく不満でした。ぬるいビールほど不味いものはないですよね。途中からバケツに氷を準備してもらえるようになりました。

一度、2等寝台の客が珍しさに覗きに来たことがあります。オバちゃんにロシア語で追い返されていました。各車両には必ず1名オバちゃんがいてその車両の車掌さん兼お世話係といった感じです。








また各車両に湯沸かし器があってお茶が飲めたりしてとても便利です。私達はそのお湯で日本のカップ麺をよく食べました。バターの味付けにウンザリしていたのでとても助かりました。食べ慣れた日本の味は涙が出るほど美味しく感じたものです。(涙)









この続きは次回に、、ではまた。





















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2022年現在、65歳のシニア世代の自分が感じたことを発信したいと思ったのが出発点です。やってみて良かったこと。買ってよかった物。試してみたら意外と楽しい事、また得したこと等を記録していこうと思います。

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