誰にでも目撃談はあると思いますが、忘れられない話を3つお話します。
テレビ朝日のアルバイトをしていた私が「オバケを見た話」にも書きましたが、この頃私は21歳で(43年も前)、他にもいろんなものを目撃しました。
大昔の話で恐縮ですがお話します。
それでは、どうぞ!
以前のブログ記事に
「若い時にオバケを見た話」 でも紹介しましたが
43年前( 驚!) 私はテレ朝の局内でアルバイトをしていました。毎日が忙しく雑用であちこちを走り回っていました。
1977年当時、テレビ朝日には「にっぽんの歌」という音楽番組がありました。その番組は第7スタジオで収録が行われていました。私はその7スタで細かい作業をしていました。
そこに登場してきたバンドが「サザン・オールスターズ」でした。
サザンオールスターズ
愛はスローにちょっとずつ(Full ver.)
私は、音合せやリハーサルの時からスタジオの片隅で仕事中でした。
曲は「勝手にシンドバット」でしたが、その時は全くの無名バンドですから気にもしてませんでした。
「にっぽんの歌」という音楽番組はどちらかといえば演歌が中心だったと思うのでこのバンドはかなり異色な存在だと思いました。番組の担当者としてはずいぶん思い切ったことをしたと思いますね。
私は「随分変わった曲だな〜。」とは思いましたが、こんな大ヒット曲になるとは夢にも思っていませんでした。その後、「サザン・オールスターズ」はあっという間に日本のTOPバンドになりました。
音楽史的にはスゴイものを見たと思いますが、その時は何も感じていないので私も「見る眼が無いな〜。」と恥ずかしくなります。
もう一つの目撃はタモリさんです。
調べてみたらタモリさんのデビューは1975年となってたので、もう2年間ほどは活動していたみたいです
今はタモリさんを知らない日本人はいないと思います。それもフジテレビの番組「笑っていいとも」を長年司会をしていたことが大きかったと思います。
ですが、その当時のタモリさんはほぼ無名だったし「やや変態的な」コメディアンとして認識されてたと思います。タモリさんのネタも「イグアナ」が有名で、私も「なんだか気持ち悪いね」なんて言ってました。
テレ朝で目撃した時も番組リハでしたが、黒いマントに赤黄青のライトを仕込んだ不思議な衣装で登場しました。マントの下はほぼ下着のみだったと思います。やっぱり変態的でしょ?
この時も私には、この人が国民的なスターになるとはとても思えませんでした。人生は解らないものですよね。でも一番驚いてるのはタモリさん本人かもしれませんね。
もう一つの目撃はビールの「ハートランド」です。
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公式サイトより |
あのビール「ハートランド」はテレビ番組の企画で生まれた商品でした。
テレビ朝日の料理バラエティ番組「愛川欽也の探検レストラン」です。この時は1985年なのでアルバイトは辞めていましたが、知合いを訪ねて遊びに行くことがわりとありました。
友人は「今度、局内にレストランを作るんだ。それも番組でだよ。」私は「面白いじゃない。」と興味津々でした。他にも番組では小淵沢の駅弁「元気甲斐」を作って大ヒットさせていました。
レストラン「たべたか樓」は、テレビ朝日の旧局舎に作られました。ここはとてもユニークで入り口は塀に空いてる穴でした。そこからレストランに入ります。「なんてオシャレなアイデア!!」だろうと感心したのをよく憶えています。
番組で作る仮設のレストランはありましたが、常設で営業するものは聞いたことがありませんでした。当時は随分話題になりました。愛川欽也さんの企画力には「絶賛の嵐」だったと思います。
たしか2軒めのレストラン「ハートランド」も作られたように思います。ビール「ハートランド」は、この2つのレストランでしか飲めないビールとして話題になりました。
その「ハートランド」が 2021年でも飲めるんですからすごい事ですよね。
愛川欽也さんのアイデアがこんなカタチで長く続くなんて素晴らしい事だと思います。亡くなった愛川さんに「良かったですね」って言ってあげたいです。
めでたし、めでたし。
それでは、また~。
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